7月6日、午後1時すぎから東大法医学教室で総裁遺体の司法解剖が行なわれた。執刀は桑島博士、立会いは日本法医学界の第一人者と言われた古畑博士だった。鑑定の結果、生きている人間が列車に接触した際に生じる「生活反応」がほとんどないことから「死後轢断」という結論が出された。いわゆる「古畑鑑定」である。
「死因は不明だが、死んだ後に轢かれた」...微妙な言い回しであったが、これは他殺を意味するものだった。
他殺説の根拠になりそうな謎の数々は、その後も次々と登場する。唯一の生活反応が局部に見られたこと(局部に生前に何らかの衝撃が加えられたことを意味する)、遺体の下着に付着した大量の植物油の出所、靴に付着していた色素の出所、轢断現場の手前180mに点々と続いていた血痕の謎、総裁の遺体には殆ど血液がなかったこと、そして総裁が常に肌身放さなかったメガネは現場からついに発見されなかった。
いっぽう、警視庁特別捜査本部は頭を抱えていた。三越から現場に至るあちこちで、下山総裁らしい人物の目撃者が23人も出てきたのだ。その人物は五反野の旅館で3時間ほど休憩もしていた。また、総裁がGHQと労働組合との板ばさみの中で苦悩していた事実も浮かび上がってきた。当初他殺説が圧倒的であった捜査本部は次第に「初老期躁鬱症による自殺説」へと傾いてゆくことになる。
自殺か他殺かという論争は、社会もまた巻き込んだ。マスコミでは朝日新聞を筆頭に各紙が他殺説を主張する中で、毎日新聞だけは自殺説を主張した。東大の「古畑鑑定」に関しては、慶應大学の中館教授や元名古屋大学の小宮教授などから疑問視する声が出され、いわゆる「法医学論争」が巻きおこった。この論争は衆議院法務委員会にまで持ち込まれている。
また、しばしば言われるのが警視庁内で捜査一課が自殺、捜査二課と検察庁が他殺だったという図式であるが、これに関しては慎重な説明が必要なので、おって詳しく説明することにする。
8月3日、目黒の刑事部長公舎で東京地検、警視庁各課、東大による最後の合同捜査会議が行なわれた。これは捜査本部が自殺の方向で結論づけようとした会議だった。だが世間を納得させるだけの材料もなく、東大の鑑定結果と異なる判断が、公式発表されることは決してなかった。
また、自殺の公表に関しては吉田内閣の増田官房長官から坂本智元刑事部長にクレームが入ったことが近年判明している。政府にとっては総裁の死が他殺であることは好都合だった。というのも、総裁の死が日本共産党あるいは系列の労働組合の犯罪を匂わせることが、当時の労働運動の気勢をそぐためには大変有効な手段だったからだ。
日本共産党は自らにふりかかる火の粉を払うかのように自殺説を主張した(のちアメリカによる謀略説に変わる)。とにかく、結果として労働運動は後退し、人員整理は強行された。日本経済は安定基調にのり出し、翌年の朝鮮戦争特需により不死鳥のように甦ることになる。そうした意味で下山総裁の死は戦後の歴史を語る上でも重要な役割を果たしたといえる。
合同会議後も「継続捜査」の形をとった事件捜査は、植物油や色素といった遺体への付着物に関する調査が中心となっていった。他殺説には有力な根拠になるるかもしれない捜査であったが、12月をもって捜査本部は解散、その後の捜査もあいつぐ捜査員の転勤により自然消滅していった。
昭和25年、捜査本部から漏洩した「下山事件捜査報告書(下山白書)」が雑誌に掲載される。警視庁捜査一課を中心とした捜査内容を記したこの報告書は、捜査本部の何者かが公式発表の代わりとして意図的に「漏洩」させたものともいわれている。
その内容は当然ながら自殺を印象づけるものだった。しかし後に朝日新聞の矢田喜美雄が「自殺に都合のいいことばかりをデッチあげたフィクション」と非難したように、この内容に懐疑的な者も多く、逆に自他殺論争に火をつける結果となった。
占領の時代が終わると、フタが外れたかのように様々な謀殺情報が入り乱れた。そうした中で最もセンセーショナルを巻き起こしたのが、松本清張の「日本の黒い霧(昭和35年)」に収録された「下山国鉄総裁謀殺論」だった。
清張は総裁の死を「行過ぎた進歩勢力を後退させるためのアメリカ軍によるの謀殺」とし、遺体の現場への運搬に占領軍専用列車が使用されたという大胆な「推理」を行なっている。
昭和39年、公訴の時効を目前にして、政府は日本共産党の要求に応じて東大の死体鑑定書の要約を公表する。その内容は「死後轢断」という周知のものであり、目新しいものはなかったが、他殺を裏付ける資料が公的に出されるという結果となった。
そして7月の時効成立を機に松本清張らによる「下山事件研究会」が発足する。会は下山事件を「現代史の中で歴史的な役割を果たした事件」と位置付け、東京地検に対する情報公開、事件に関する情報収集を訴えた。
その一定の成果として捜査報告書など事件に関する資料を集成した「資料・下山事件(昭和44年)」が出版された。出版直前の7月5日(失踪から20年目)、会は日比谷において記者会見を行い「いまだ他殺であるという疑惑を払拭できない」という内容の声明を発表する。
いっぽう自殺説を主張した書籍は、数少ないながらも毎日新聞記者の平正一「生体れき断(昭和39)」があった。時期は逆になるが井上靖は昭和25年に下山事件をモデルとした「黯い潮」を発表している。ここには自殺説を主張するいち新聞記者が登場するが、これは平がモデルではないかと思う。
昭和45年には元警視庁捜査一課刑事の関口由三が「真実を追う」を発表した。実際に捜査を担当した人間が知りうる生々しい記録と自殺への確信が含まれているだけに、第二の「下山白書」ともいえる内容だった。