下山事件資料館

7月5日 午前8時45分

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午前8時45分 和田倉門ロータリー

和田倉門交差点NHKの第1放送では、ちょうど「尋ね人」が終わって「子供の音楽」が始まった頃、ビュイックは和田倉門ロータリーへとさしかかった。

捜査報告書では「東京駅前ロータリー」と書かれている場所だ。我々はつい東京駅丸ノ内口のロータリーを想像してしまうのだが、正式には「和田倉門ロータリー」が正しい。

このロータリーは昭和9年ごろ設置された。当初道路に線が引いてあるだけの単純なものだったが、次第に東京の表玄関にふさわしい存在として、複雑化されていった。昭和24年当時はロータリーの中央を都電の軌道が南北に、行幸通りが東西へ貫くという特異な形をしていた。非通行部分を緑化し、道路の真中のオアシスと化していたが、深夜、照明の少ないこの道を傍若無人に飛ばしまくる車にとっては、恐怖以外の何ものでもなかったはずだ。

右手には東京海上火災の重厚なビルが見える。戦前まで実兄の下山英種が勤務していたビルである。当時は接収され、婦人部隊の宿舎として使われていた。

いつもであれば、ビュイックはここで行幸通り(Xアベニュー)へと右折して、東京駅方面へと向かう。そうすれば国鉄本庁は目と鼻の先だった。

ところが総裁は、大西運転手に言う。
「買い物がしたいから三越へ行ってくれ」

雪の和田倉門ロータリーここで初めて明確な指示が出る。人間ナビゲーターである大西運転手は、とっさに最適なルートを判断し、そのまま直進する。

この瞬間、総裁は大西運転手に対して3分の2の確率でウソをついている。3分の1は自殺の場合だ。でも「自殺がしたいから三越へ行ってくれ」と言う人間はいないだろう。

次の3分の1は他殺の場合だ。「情報提供者と会いたいので三越へ行ってくれ」。そんな秘密を大西運転手に明かす必要もあるまい。

残りの3分の1も他殺の場合だ。総裁はほんとうに三越で買い物がしたかった。そして、その最中にとつぜん何者かにピストルを突きつけられて、そのまま拉致された、というのである。そうか、三越ってそんなにキケンな場所だったんだ...筆者だったら、誰かを拉致するのに、全方向に目撃者がいるような百貨店よりは、国鉄本庁のような廊下と壁で仕切られているオフィスビルを利用するだろう。

そうやって色々考えると、三越へ行くのに「買い物がしたいから」という言葉をわざわざ付け加えるというのは、言い訳がましく受け取れられなくもない。

捜査報告書そのままに総裁がしゃべったのかどうかは、今となってはわからないが、言葉どおりに解釈すれば、そうなる。

午前8時45分 国鉄本庁

東京駅同じころ、国鉄本庁の裏玄関まで降りてきた総裁秘書の大塚辰治は、総裁専用車が来る方向を凝視していた。

ちょうどその方向...本庁と十字路を挟んで北西にはには100メ−トル四方もあろうかという大きな人工池が見える。本来ここには新丸ノ内ビルヂングが建設されるはずだった。だが、戦時中の物資の欠乏は工事を中断させた。地下を堀削した跡は水で満たされ、防火用水池となっていた。

ビルの日影にあった裏玄関は、池を通り過ぎた風が吹き込んでくる涼しい場所だった。しかし今日は微風すらなかった。

新丸ノ内ビルヂングは3年後の竣工を目指してまもなく工事が再開される。もしそうなれば、朝のわずかな時間に清涼を楽しむことすら、このビル街からは失われてしまうのだろう。


午後8時45分 大手町交差点

大手町交差点大西運転手は、300m先の大手町交差点で永代橋通り(Wアベニュー)へとビュイックを右折させた。

彼はそのとき、総裁が「今日は10時までに役所へ行けばよいのだから」とひとりごとのようにつぶやいたのを耳にしている。

大西運転手は総裁のスケジュールを詳しくは知らない。だから「今日は9時から重要な局長会議があるんじゃないですか?」とは言わない。いっぽう総裁は前日に知らされていた予定時間の9時を10時と勘違いしていたか、ハナから会議に出席する気はなく、言い訳のように独り言をつぶやいたかどちらかだ。

いずれにせよ、この時点で「スケジュール」というものは総裁の頭の中にしかなかった。毎日のように予定を書き込んでいた総裁の手帳は6月28日時点で途絶えていたのである。そこには走り書きで次のように書かれていた。「エーミス(筆者注 GHQの労働課長代理)に叱られる。決裂のチャンスをつかめと言われた」

早稲田車庫から州小川町を経由して州崎へとゆく都電軌道と並走しながら、ビュイックは東へと向かった。